モイーズの言葉

2017.05.31 update

現在、フルートの国際的なコンクールが行われていますが、今回は1次予選からネット配信されていてとても驚きました。

それで、空いた時間にチラチラと見ているのですが、ふと、「曲をだしに使って自分を見せることは決してしない」というモイーズの言葉を思い出しました。少し長いですが、芸術家の個性について聞かれた時のモイーズの答えを引用します。

「個性がなければ芸術家にはなれないだろうが、音楽家だったらその個性は音色と曲の解釈に現れるだろう。
その人のだす音はその人の全人格を表している。
それはあたかも人声と同じようなものだ。
音を聴けばその人間が何を考え何をやってきた人間であるかはっきりと知ることができる。
人格が向上すればその段階に応じて欲する音を出すだろう。
従って音は死ぬまで変化しつつ生き続けるのだ。

もう一つは解釈、ある人が作曲者に対してどのくらいの音楽的良心をもって、符の玉から音楽をひきだすか、いかに自分を押し殺して曲の心を再現し曲に命を与えうるか、その度合いによっておのずから個性が変わってくる。
芸術家の音は少なくとも曲の再現に恥じない音であるはずだし、曲をだしに使って自分を見せるようなことは決してしない。この域での個性はそれぞれにすばらしい。
しかし、これは出そうと思っても出るものではない。
芸術家の己にきびしい追究の道において知らず知らずのうちににじみ出るものである。
結果的に我々がそれを個性と呼ぶだけのことである。
意識的に個性を作ろうとしたならば、ショウマンにはなれても、絶対にアーティストにはなれないだろう。
芸術家の個性は人格の表出であることに注目しなければいけない。
それに接することはあるときには作曲者の心に接すると同じくらい貴いことであるかもしれない。」
(高橋利夫著 モイーズとの対話 より)

先日、写真家の岩合さんがテレビで「撮影対象との共振」ということを話されていました。音楽も同じで、作曲家、そしてその音楽と演奏者との共振があり、そこに没頭しているうちに、その人にしか作れない世界が広がっていくのではないかと思います。それは、モイーズの言うような、「曲を使って自分を見せる」こととは似て非なるもの。

と言いつつも、私も、若い頃は今思い出すと恥ずかしくなるほど、自己アピールが強い演奏をしていたなぁ‥と思います^^;

きっと、みんな、年を重ねたり、いろいろな音楽経験を積む中で、どこかで気づいていくのだと思いますが、コンクールは、モイーズの言うところの「ショウマン」を評価するのではなく、真摯に音楽と向き合う「芸術家」を評価するものであってほしいと願っています。

さてさて、どんな方が受賞されるのか、楽しみです。
(写真は私が愛用しているCouesnon Monopole)