H・P・シュミッツとフルトヴェングラー

私がH・P・シュミッツの本を再読するきっかけになったのは、その演奏をYouTubeで聴いたことでした。

昔のドイツスタイルで時代を感じるものでもあったのですが、その「時代」について改めて考えさせられました。

私は生徒さんにも「フルートの奏法は時代や国、流派などによって様々で、正解はない。だから自分が何を大切にしたいか、そのために何を選ぶのかを考えよう!」とよくお話しします。古い時代のものに触れる時には、現代の感覚で良い悪いと評するのではなく、その時代に生きた人々がどういう環境で何を目指したかを知ることによって、自分がこれからどのように演奏したいかを考えるヒントにしてほしいと私は常々思っています。

前回の記事でご紹介した「フルート奏者への実践的アドバイス」を読んでいて、H・P・シュミッツを知るためには、当時のドイツとオーケストラ、そしてフルトヴェングラーのことを抜きには語れないのではないかと感じたので、今日は資料を元にその足跡を辿ってみたいと思います。

まず、H・P・シュミッツがベルリンフィルに入団した時のことから。

『1940年3月—戦争の最中で、私は兵役に服していた—私に(グスタフ・シエック先生が)次のような電報を下さった。「ベルリン・フィルハーモニー首席フルート奏者至急募集中」。しかし、私が所属していた機関銃中隊の隊長は、その部隊にはなかった光学距離測定器に代わる機器を設計するなら休暇をとって入団試験を受けてもよいと言った。幸にも私は短期間でグラフィック測量板を設計するのに成功した。戦前、音楽学の他に美術史、哲学、物理学を学んだのが役に立ったのである。私はフルトヴェングラーの前で入団試験を受けて合格し、首席フルーティストのポストを獲得した。ところが、将校であった私を直ぐには除隊させてはくれず、実際に勤務についたのはやっと1943年になってからであった。』

そして当時のベルリンフィルの様子。

「私のフィルハーモニーの同僚は昔のドイツ奏法からぬけきれず、十年一日の如く木製のフルートを吹いていた。その音は全般的に全くヴィブラートのない、非常に融合しやすく、豊かで、音色はどちらかというと暗かった。したがって、横隔膜によるヴィブラートを持つ軽やかで雑音のない私の銀製フルートの音色は、昔の奏法で吹いた同僚のフルート奏者にはさしあたり気に入られなかった。オーケストラの他の団員とフルトヴェングラーはむしろ気に入ってくれた。フルトヴェングラーはオーケストラの響きと解釈を昔のオルガンの考え方から今日でも通用するような理想の方向へと次第に変えていき、だんだん数を増やしてきたソロの管楽器奏者、つまりより個性的に、より表情豊かに、そしてよりソリスト的に演奏する管楽器奏者を優遇したために、私の立場は救われたのである。」

H・P・シュミッツの師であり、ベルリンフィルへ入団するきっかけを作ったグスタフ・シェックもまた、オーケストラの中で同じような経験をしていました。レコードを聴いてモイーズを尊敬していたシェックが、フランスの銀製フルートをオーケストラで吹き始めた時、同僚から「そのブリキのおもちゃをお捨てになったらいかが。まともな音がしないじゃないの!」と言われたとか。しかしながらシェックもまた、ブルーノ・ヴァルターやカール・ベームのような指揮者から注目されていたそうです。

時代の先駆者であるからこその批判。そして指揮者からの理解と、ともに歩む音楽活動。H・P・シュミッツはフルトヴェングラーのことを次のように語っています。

「私がいつも深く感動していたののは、フルトヴェングラーと音楽の両者が渾然一体となる独自の深い結びつきであった。彼が解釈すると、音符と音符の間、その背後にあるもの、つまり音楽本来の奥深い意味がいとも明々白々に掘り出され、音楽としての響きになるのである。これはごく選ばれた音楽家にだけできることである。彼の場合、一つ一つの音符に至るまで、すべてが内面的に体験され、何ひとつ外面的なものはない。例えば、ベートーヴェンの作品にしても、フルトヴェングラーはベートーヴェンの苦しみを共に苦しみ、その自由の歓喜を共に感ずることができた。18世紀の偉大なフルーティストであり教師でもあったクヴァンツが「音楽家の心の中から出たものだけが聴く人の心の中に再び入っていくことができる」と言っているが、これがまったく不思議なほどフルトヴェングラーに当てはまる。その演奏を通じて当時の人々の心を深く動かすことができただけではなく、死後30年経った今日なおレコード、テープを通じて音楽に対する感受性を持った世界中の若い人たちを感動させることができるのが、その証明である。」

「フルート奏者への実践的アドバイス」の中には、「フルトヴェングラーを考える」という章があり、「私のフルトヴェングラー体験」「音楽家としてのフルトヴェングラー」「指揮者としてのフルトヴェングラー」「演奏家としてのフルトヴェングラー」と、ほかにもたくさんのことが語られていて、音楽家として大きな影響を受けたことが伺えます。興味のある方はぜひお読みなってください!

H・P・シュミッツは7年間ベルリンフィルに在籍し、1953年からはデトモルト音大で教鞭を執りました。後に「この頃が私の生涯で最も幸せな時期であった」と回想しています。その理由のひとつに「ベルリン・トリオ」というアンサンブルの活動があったと考えられます。幼馴染みでもあったチェンバロのハンス・シュピナー、ベルリンフィルの同僚でもあったチェロ奏者ルナー・ハウプトとのトリオは「一緒に演奏する度に何か新しいものが得られ、そこには私たちを興奮させ、活気づけるものがあった」と。

しかし、1961年にベルリンの壁が築かれたことにより、ベルリン東部に住んでいたハンス・ピシュナーと会えなくなり、このトリオの活動は終わりを告げました。そして、H・P・シュミッツは、その後、公の場で演奏することはなかったそうです。

激動の時代を生きたH・P・シュミッツは、戦時中のベルリンフィルでの活動を次のように語っています。

「厳しい時代には、生きてゆく日々の営みの中でも真に本質的な価値を持つものに目を向ける人が平和な時代以上に多いものである。芸術、特に音楽は様々な価値の中でも独特の意義を持っている。人間は苦しみを背負った時にこそ、偉大な芸術を自己の内面に一層深く受け入れる。危機の時代に精神的に生きのびるため、芸術体験の方が日々のパンよりも切実に必要な人さえいる。こういう状況下で、当時のベルリンの聴衆にとって、いや、私たちベルリン・フィルハーモニーの団員にとっても、音楽はまったく特別なもの、本当の意味で生きてゆくために欠かせないものであった。」

フルトヴェングラーの指揮するベルリンフィルや、わずかに残されたH・P・シュミッツのベルリントリオの録音からは、こういった時代の空気が迫ってきます。

そして、だからこそ、違う時代を生きている私たちには馴染まなくなった部分ももしかしたらあるのかも知れません。でもそれはH・P・シュミッツ自身も十分承知で、次のように述べています。

「昔の録音を聴いてみて、当時の私たち3人は過去の音楽を私たち自身の時代の音楽言語であるかのように今日の人々に納得していただくことに成功していると思う。当然のことながら、30年後の今、私が演奏してもかならずしも当時と全く同じにはならないであろう。その間に私自身の好みも世の中の趣向も変化したからである。好みの違いや古い音楽との関わり方によっては私たちの演奏解釈をよしとしない人がいるのは当然である。しかし、私たちはこの録音が今日こそ古い音楽の演奏法をめぐる様々な議論の一翼を担ってくれるものと確信している。」

最後に、H・P・シュミッツのこういった姿勢について、翻訳者の増永弘昭先生が編集後記で書かれた文章をご紹介します。

「シュミッツ先生の文章を読む時に強調しておきたいことは、その意見は常に提案であったことである。先生は、特に音楽においては唯一正しい意見は存在しないと信じていた。自分の意見が議論展開の土台になればよいという考え方であった。そこから個性が生まれ、音楽が展開し、発展するというのが彼の真意であった。」

(文章の引用はH・P・シュミッツ著「フルート奏者への実践的アドバイス」より、写真は増永弘昭「フルートはうたう」より)